ダーウィンの家 DownHouseへ行く

先週末ダーウィンの家ダウンハウスに行ってきた。ロンドンから車で1時間のケント州にある田舎のダウン村にある。


ダーウィンの進化論で知られているチャールズ・ダーウィン。ダーウィンは、1800年代のビクトリア時代に、ここロンドンとケンブリッジ、オックスフォードで活動していた偉大なナチュラリストである。

 

また人生の後半は10人の子供を儲けたケント州のダウン村にある家に移り住んだ。その家は現在英国遺産English Heritageが管理、一般公開されている。


あの「種の起源」、「進化論」が書かれた書斎を150年後の私たちも見ることができる。

 

現在の私たちは彼が当時の常識を覆した偉大な研究者だと知っているが、種の起源を発表するまで彼は「家族の恥」とまで父親に言わせた落第生だった。

"You are a disgrace to our family!"

 

上流階級で成功した医者であり投資家だった父親にしてみれば、医者の勉強をさせるために送ったエジンバラ大学でも「血」を見ることが嫌で中退し、乗馬や狩りが好きで勉強はほどんどしなかった。その後聖職者の勉強をするために父親からケンブリッジ大学に送られている。

 

しかし、彼の植物や昆虫に非常に興味を持つ優しい性格、またCompulsive Disorderと言われた異常な几帳面さが、その後の科学者としての大きな功を成した。

ビーグル号の南米航行

ケンブリッジで知り合い教授であったハンスローが、英国王室ビートル号のフィツロイ船長が自然の単なる採取でなく同行者(話し相手)を探していることからダーウィンを紹介した。

 

2年間の航海に出ることを医者の父親は大反対したが、叔父のウェッジウッドが説得し、その資金の応援をすることになった。もし、ビートル号の船長が付添人を求めず、父親が反対するまま実行できなかったら、現在の「種の起源」や「進化論」はなかった。ダーウィンの家ダウンハウスのスタッフの説明では、このビーグル号の1代目の船長が亡くならなかったら、2代目の船長フィッツロイにならなかったらダーウィンの同行もなかったと言っている。(ちなみにこの航海結局は、5年間に及んでいる。)

 

この航行でダーウィンは、アルコールに漬けた1529種の標本、3907の乾燥した標本を採取したと言われている。このビーグル航海の時に連れて帰ってきた亀は、175年間生き、2006年に死んだというから驚く。

キリスト教を冒涜した進化論

典型的な手紙魔だったダーウィンは生涯で2000人と手紙による意見交換をし、そのうち約200人が聖職者だったといわれている。

 

決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではなかったが、しかしもっとも愛した長女アン・エリザベス(アニー)が献身的な介護の甲斐無く死ぬと、元来信仰心が薄かったダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信した。

1871年雑誌に載ったダーウィンを揶揄する風刺画
1871年雑誌に載ったダーウィンを揶揄する風刺画

「ヒトは猿から進化した動物の一種」だという理論は、「人間は神の創造物」とするキリスト教に真っ向から反対する理論だった。

 

この理論は世間を大きな論争に招いた。ケンブリッジ大学からずっとサポートしてきた友人であり恩師だったハンスロー、恩師のセジウィッグ、協力していた友人のライエルも、最終的には「理論としてはすばらしいと評価したが、やはり道徳的、倫理的に受け入れることはできない」と言ってダーウィンの理論には反対している。


「昆虫記」で知られているファーブルもその反対者の一人で、数回の手紙の交換をしたが意見の合意には至らなかった。

 

彼の理論は世間を多いに騒がせ、1860年、オックスフォード大学で1000人の人が参加する大討論会が開催された。

 

反対する国教会のウィスバーフォース大司教らと進化論をサポートする派と激しい討論会が開催された。ウィルバーフォースは「種の変化に反対はしないが、ダーウィンの説明には反対である」と述べた。生物学の知識がなかったため聖書と感情にのみ基づいて論じ、議論はかみ合わなかったらしい。

 

この時、病気がちで体の弱いダーウィン自身はこの討論会に参加していない。対立することを好まない温和な性格だったといわれ、このような討論は彼の弁の達者な友人によって議論された。


驚くべきことに、この時の参加者の一人に敬虔なクリスチャンだったビーグル号の船長フィツロイ船長もダーウィンに大反対するメンバーの一人で、この航海にダーウィンを連れて行ったことを後悔していると人々の前で自分を攻めたそう。


ダーウィンはあまりの反発の激しさに「この理論が受け入れられるのには種の進化と同じだけの時間がかかりそうだ」と述べている。

民衆向けの「種の起源」出版

1859年、科学者向けの本の執筆をあきらめ、9ヶ月間かけて一般人向けの本「種の起源」を書き上げた。その出版された本はたくさんの人々に読まれ話題になった。

 

健康に問題を抱えていたダーウィンは執筆が終わった時、衰弱し「弱いこどものようだった」と言っている。

 

この1250冊しか出版されなかった初版の「種の起源」の一冊は、ダウンハウスの一室で厳重にガラスケースに入り保護され展示されている。この本の現在の価値は、なんと20万ポンド(4千万円)ということだから小さな家が1軒買える金額である。

結婚と私生活

エマ・ダーウィン 母方のいとこ、食器のウエッジウッドの創始者の娘だった。
エマ・ダーウィン 母方のいとこ、食器のウエッジウッドの創始者の娘だった。

ダーウィンは、ビーグル号の航海から帰ると結婚することのメリットを長いリストにしている。几帳面な分析家だったことがわかる。このリストは展示されているので見ることができる。(このマメな性格が、航海中に採取した標本にも細かな記録を残していることが正確な資料になった。)

 

そして、母方の従姉妹のエマ・ウェッジウッドと結婚している。血縁が近いことで家族の反対もあったが、10人の子供に恵まれた幸せな結婚をしている。エマはその苗字でも察しがつく、父親はあの名だたる陶器ブランドの創始者、ジョサイア・ウエッジウッドの娘だった。

 

ダーウィンの航海に反対していた父親は、息子が科学者になれることを知り航海から帰ると、多大な資金を応援した。当時中流階級の家庭が100ポンドで十分な生活をしていた頃、ダーウィン家、ウェッジウッド家の双方からの資金援助は毎月900ポンドだったという。

ダーウィンは生涯資金に困ることなく研究に没頭できた。その資金にて購入された使用人もかかえたその大きな家が、現在のダウンハウスである。

 

大きな研究用のガーデン、南洋からの植物を栽培していたと思われるグラスハウスは今も健在で、珍しいたくさんの植物がみられる。

 

余談だが、「ダーウィンの進化論」で知っていたダーウィンが、チャールズという名前だったことは、ゆくゆくダーウィンの末枝という(彼女のおばあさんがダーウィンの娘)だったという大家さんと住むことになったことで知った。

イギリスで「チャールズ・ダーウィン知ってる?」と聞かれたら、このダーウィンのことです。

 

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見たこともない熱帯の植物がたくさん保管されている。
見たこともない熱帯の植物がたくさん保管されている。
ダーウィン一家が通った教会。説明書きがされるプレートが掲げられる。訪れた時はベルリンガーの練習の日で鐘が鳴り響いていた。
ダーウィン一家が通った教会。説明書きがされるプレートが掲げられる。訪れた時はベルリンガーの練習の日で鐘が鳴り響いていた。




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