18C初めてのセレブ?ネルソンの愛と失墜

 

グリニッチ天文台をご案内する予定で、お客様と途中で寄ったマータイム(Martime museum)海事博物館で、思わぬ大きな、衝撃的な足止めをくらってしまいました。それは、この「セダクション&セレブリティー」というタイトルがつく、エマ・ハミルトンの生涯を綴るエキシビジョンです。

彼女は、あのトラファルガーの戦いで勇敢に戦った英雄のネルソン提督の愛人だった人です。

 

エマの生い立ち

広告の写真を見ても、かなり可愛らしい女性であり、「ネルソンの愛人」だったこのエマ・ハミルトンの生まれと育ちを聞くと、「え?」ともう一回聞き返したくなるほど。

 

彼女は、ウェールズの貧しい鍛冶屋の娘でありお祖母さんに育てられていたらしいのだけれど、12歳の時から作曲家、医者などの上流家庭のメイドとして働き始め、16歳の頃には、売春仲介宿のミセス・ケリーの住所に住んでいて、実質娼婦だったことがあると言われています。

 

ロンドンBlackfriersにあったBudd一家で働いている時、同じメイドで女優志望だった女性の影響で、コベントガーデンのDrury Lane 劇場に出入りするようになり、有名女優のメイドを始めます。

 

15歳の頃、 英国サセックスのTemple Healthという場所(別荘?)で、Sir Harry Featherstonehaughのためのモデル兼ダンサーとして長期間ハイヤーされます。結婚式のスタッグナイトのために彼の友人たちのためにテーブルで裸で踊ったと言われ、その後、このフェザストーンホー卿は、彼女を愛人にします。

 

しかし彼は、お酒や狩猟に熱中し、彼女のことは無視していたとされ、その時に彼の友人の一人で物静かで真面目だった、Charls Fancis Greville(チャールズ・グレボー)と親しくなります。彼は、2代目ワーウィック伯爵の息子で、その父は国会議員でもありました。

ちょうどその時、エマは、フェザーストーンホー卿との間の子供を身ごもっていることがわかります。


貴族の愛人たちと画家ロムニーのミューズ

フェザーストーンホー卿は、望んでいないエマの妊娠に激怒しますが、数軒もつ家の1軒をエマに与えることになります。

 

その後すぐ、Grevillグレボーとロマンティクな関係になったエマは、その後、彼の愛人になります。

それまでの名前Amy Lyonエイミー・リオンという名前を、Grevill グレーボーの頼みでこの時 Emma Hartエマ・ハートという名前に変えることになります。

 

このグレボーとエマは心底愛し合っていたそうです。

この時、グレボーの友人の一人だった画家のジョージ・ロムニーGeorge Romneyに彼女の肖像画を依頼します。そしてロムニー自身もこの可愛らしいエマの虜になって行き、ヌードのデッサン含む、ストーリーの主人公にしては、たくさんのエマの作品を描き、エマを彼のミューズにすることになります。(この写真のほとんどは、ロムニーの作品)

 

しかし、その後、借金を抱えていたグレボーは、18歳の名家のお家継ぎの女性と結婚を決めることになります。結婚を阻むことになった愛人の存在。グレボーは、彼女をナポリの特命大使としてナポリ(イタリア)に在住していた叔父に彼女を送ります。

 

ナポリでの生活

エマは、ナポリで待てど暮らせど来ないグレボーが、とうとう来ないことに気がつきます。エマは、もともと叔父のウィリアム・ハミルトンの愛人になるために送られたのでした。(それを知った時のエマは、激怒したと伝えられています。)

 

その頃、このロムニーが描くエマの絵画で彼女は、有名人になっていました。この話を聞いて知っていたウィリアム・ハミルトンは待ちきれなくて、旅費の資金を出しているそう。

その後、1791年6月、エマは35歳年上のウィリアム・ハミルトンと結婚し(エマ、若干26歳)、レディ・ハミルトン夫人となります。

 

この時、クラシックと言われた言語(ギリシャ語、ラテン語など)、社交ダンス、歌など、上流階級に必要な嗜みを、ハミルトンの出資でレッスンを受けることになります。頭の回転が早く、聡明であった彼女は吸収が早く、ハミルトンを通して知り合った(フランス王妃)マリー・アントワネットの妹、女王マリア・カロリーナ(ナポリ王、フェルディナンド1世の妻)と親しくなった頃には、フランス語、イタリア語が流暢になっていました。

 

同時にナポリでは、ダンサーとしてステージに立つことになりThe Atitudeというダンス作品も作っています。このステージはナポリだけでなく、デンマークや他ヨーロッパまで広がり、彼女の知名度も広がっていました。

 

ネルソンとの出会い

英国軍船団British Convoyのリーダー、ウィリアム・ハミルトンの妻であったエマは、1793年ネルソンをナポリで迎えることになります。

5年後に再度ナポリに戻った英雄ネルソンは、その頃、片腕をなくし、ほとんどの歯、またひどい咳に悩まされていてとても健康な状態ではなかったそう。それを見たエマは、「God, is it possible?」と言いネルソンに倒れかかって気を失ったそうです。(これは・・かなり古い、ひどい演技!この頃では普通か?)

 

その頃ウィリアム・ハミルトンは60代も後半。引退したい彼は、エマとネルソンの関係を容認するどころか、勧めていたとも言われています。

その後、ハミルトンとエマは、ネルソンを同じ家で病気の看護をし、ネルソンの40歳の誕生日には、1800人の招待客を呼んだ盛大なパーティを開催したそうです。ここから、同じ屋根の下に男性2人と、エマの3人の3角関係が始まることになります。

ナポリ王室と政治への関与

 この頃、流暢にフランス語とイタリア語をこなしていたエマは、ナポリ女王マリア・カロリーナと個人的にも親しくなっていたばかりでなく、政治的にも影響を持ち始めていました。マリーアントワネットの妹であるカロリーナに、フランス革命の脅威にどのように対応したらいいか、アドバイスをしていたそうです。

 

そのようなエマとネルソンは、深い愛情を感じていただけでなく、お互い多大な尊敬の念を抱いていたと言われ、この二人のことは、当時ヨーロッパでは「世界で最も有名なイギリス人」だったと言われています。

 

ロンドンでの生活

ホレイシオ・ネルソン提督
ホレイシオ・ネルソン提督
サー、ウィリアム・ハミルトン
サー、ウィリアム・ハミルトン

1799年、ナポリで起きた革命のため、ハミルトン、エマ、ネルソンは、ナポリを逃れることになり、ロンドンへ戻ります。ウィンブルドン近くMerton Placeに買ったネルソンの家に、関係をオープンしたハミルトン、エマ、ネルソンの3人が生活を始めることになります。そして、1801年、ネルソンとの娘Horatiaホレイシアが生まれます。(ネルソンの下の名前はHoratioホレイシオ)

 

未婚の愛人のもとに生まれたホレイシアは、一旦養子に出され、その後でエマが再度「養子」に取ることになっています。

ホレイシアは、父のネルソンのことは大いに尊敬していたそうですが、母のエマのことは、母として受け入れていなかったと言われています。

この頃、新聞はこぞって、エマのドレス・ファッション、インテリアの趣味、各行動を逐一報道しています。スペインのオペラハウスでの歌を歌う仕事の依頼もあったエマは、私生活が世間にオープンにされることを嫌ったネルソンにより断ることとなっています。

 

話をかなり端折ると、ハミルトンが亡くなった後、このスキャンダラスなエマとネルソンの関係を海軍が懸念、ネルソンを戦争へ送ることとなります。その海戦の一つが、ネルソンが命を落とすことになったトラファルガーの戦いです。

ネルソンの勝利を讃える言葉、地名が刺繍されたドレスの裾。その手紙。
ネルソンの勝利を讃える言葉、地名が刺繍されたドレスの裾。その手紙。

極貧と逃亡

1805年、トラファルガー海戦で命を落とすことになったネルソン。

ハミルトンの遺産だけで暮らしていけるはずだったエマは、ネルソンの唯一の遺産MertonPlaceの家の豪華な内装、寂しさからギャンブルなどに散財することになります。

 

 

ネルソンの遺言には、政府に、エマと娘ホレイシアへの生活の保証をするよう指示をしていましたが、政府はこれを無視。すべての補償金は、ネルソンの弟へ支払われることになりました。エマには一銭もの年金は支払われることはありませんでした。1800年代の、未婚のカップル「愛人」という立場を政府や世間が、いかに判断していたかがよくわかります。

その後、多大な借金を負ってしまったエマは、娘ホレイシアとともに1年間の刑務所に入ることになります。

当時は、借金を返済できない人は、犯罪者として刑務所に入る刑がありました。

 

一時的に釈放されたエマは、まだフランスとナポレオン戦争が続いていたにもかかわらず、フランスとの国境の町カレイに逃亡します。その極貧の逃亡生活の中、1815年1月、アメーバ赤痢菌に感染し、ホレイシアに看取られ亡くなっています。49歳でした。

 

画家ロムニーのパブ

画家ジョージ・ロムニー
画家ジョージ・ロムニー

偶然に2時間近くを費やすことになった、このグリニッジの海事博物館での展示は、エマ・ハミルトンの(ロムニーの)絵画や個人的な手紙、本、日記、ドレスの一部など、個人所有の物がこのエキジビジョンのために一気に収集されている、かなり貴重な展示です。その数は膨大で、彼女の短いながらも濃縮された人生の全てを一気に見ることになります。

 

私にとってこの展示は、かなりショッキング。極貧の状態から、華やかな上流階級に上がっただけでなく、王室、政治までに関与、当時の英雄との愛人関係に子供を持つという人生のピークを迎えます。その後の極貧状態での逃亡と死。人生を考えさせられる、到底マネすることができない彼女の生き方にショックを受けたエキシビジョンでした。

 

このショッキングな展示と、可愛らしい絵画を見た後、次の日に、ハムステッドへお客様をご案内した時、隠れ家的な暖炉のあるパブで食事をしました。何度か通っていたにもかかわらず、前日のエマのエキシビジョンを見た後で、改めて知った偶然の一致。このパブは、この可愛いエマ・ハミルトンをミューズとして肖像画を描いた画家、ジョージ・ロムニーの家+スタジオだったのでした。(2階が、絵を描いたスタジオだった。)

 

前日のグリニッジの展示と、当日のパブランチの偶然のつながりに、お客様とご案内した私も驚きのロンドン探索となった2日間でした。

 

皆さんもご興味があれば、エマ・ハミルトンの展示は、4月17日までグリニッジMartime Museumで開催されています。

パブThe Holly Bushもハムステッド駅から徒歩3分のところです。